スタッフ日記

寒波到来2!(((・_・)))さっむぅ~!

2012年12月1日

急に寒くなってまいりましたね。

先日、お得意様が岐阜県の高山に配達があり11月だというのにチェーン規制

にあい当店担当のブリヂストンのセールスA君の手配で

急遽愛知県のタイヤショップ様にチェーン&バンドを手配して頂き

何とか無事にお荷物を配達することが出来ました。

こんな事が、できるブリヂストンと関係者の皆様に ”感謝、感謝”です。  

           m(_ _)m

皆様も、お出かけ前の御準備は、万全に。

それでは、私が最近見かけた凄い映像を御覧いただきましょう。

なんと川の中に重機や、ダンプカーが入って川の整備作業をしているではないですか。

つい写真をとってしまいました。

この川は、私の住む地域にある大和川という全国でも有数のあまりきれいでない川であります。

私も、幼少のころ魚釣りや、水遊びをした想い出がありますが、その頃から

水は、濁っていて臭いもきつかったように覚えています。

あれから数十年の時を経てすこしずつ整備され水や、河川敷の改善によりやっと

汚名挽回へと一歩ずつですがすすんでいるようです。

<そんな改善中の一コマを見つけましたので投稿いたしまた。>

☆それとここでいつもの豆知識を。。。大和川編です。

昔の大和川は亀の瀬の下流辺りから北へ流れて天満川、淀川に合流していたのを、

幕府の命で新しく川を掘り、西へまっすぐ流れを変えたというのです。

あの大河川・大和川の流れを付替えるという大改修工事が、江戸時代に行われていた―――

そして8ヶ月ほどのスピード工事であった。

この事実を知るとき、わたしたちは、素直に驚かずにはいられません。

☆大和川付替えに尽力された人物 →「中 甚兵衛」

河内平野を幾筋もにわかれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付替えられたのは、

元禄が宝永と改元された1704年のことです。

洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、 最初の江戸幕府への願い出から付替

えの実現までには、50年近くの月日を要したそうです。

その間にも幕府は何度か付替えの検分をしました。

そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止。

しかし、3年連続して河内平野がすべて泥海と化すような洪水もあって、 幕府は対策に本腰を

入れ専門家を派遣工事を行います。

この工事で淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋はいっこうに改善されず、

河床には土砂が堆積して田畑より3mも高い天井川になってしまいました。

しかも、幕府は付替え不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、 付け替えの要望がで

きなくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。

しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた

根気と情熱が、 幕府の方針を変更させたのです。

この付替え促進派で終始運動の中心にあったのが代々の今米村(現在の東大阪市今米)の

庄屋に生まれた中甚兵衛で、同士の芝村・曽根三朗右衛門や吉田村の山中治郎兵衛の引退や死に

もめげず、 最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。

そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。

また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

☆国土交通省大和川河川事務所ホームページより抜粋させて頂きました。

     m(_ _)m

そういった方々の苦労と情熱があったおかげで洪水の危険から守られさらには毎年恒例の

その大和川の土手で9月に催される”川辺の花火大会!”

間近で見ることが出来るので、迫力満点です!!

☆来年の秋にはぜひ皆さんもお越しください。

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