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2012年3月1日
もうすぐ桃の節句ですね。
3月3日はおひな祭り誰がいつごろ始めたのかまた気になりだしたので
調べてみました。
「雛祭り」はいつ頃から始まったのか。
その起源説は複数存在しているそうです。
平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録がありその当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものがあるそうです
初めは「遊びごと」であり、儀式的なものではなく其処に雛あそびの名称の由来があった。
しかし平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになったそうです。
この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。
もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。
その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れたようです。
江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。
その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。
この享保年間から、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。
『御触書宝暦集成』十五では、「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」という制限が見られる[1]。しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。
また、18世紀終わり近くより囃子人形が現れ、幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案された。
雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や壇飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。
御殿は江戸では用いられず、関西およびその影響を受けた地方で用いられ台所道具も同様である。
”雛祭りが祝日でない理由”
これは、私も子供のころから疑問に思っていました。 (? ω ?)
江戸時代雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。
しかし、明治6年の新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。
このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。
祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。
北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされるそうです。
ふ (^ _ ^)~ん。 そうやったんですね。
<ウィキペディアより>
それから、雛人形の飾りつけは2月の節分の後から飾って3月3日を楽しみに待つのが
ひな祭りの流儀らしいです。
また後片付けをしない人達に早く片付けるよう促す為にある迷信がありますが、
”早く片付けないと娘さんが、お嫁に行き遅れる。”と言って早く片付けるように
戒める為に言われるようになったそうです。
いろいろな意味で子供の”成長と健康”を祈ってまた”いつまで一緒に過ごせるのか”
と考えながら飾ってみるのも良いですね。
m(= v =)m。